RFCの30年

Network Working Group                     RFC Editor, et al.
Request for Comments: 2555                          USC/ISI
Category: Informational                        7 April 1999

メモの状態

インターネットコミュニティへの情報提供のためのメモである。インターネット標準の特定を意図していない。配布は、無制限である(*1)。

著作権表記

Copyright (C) The Internet Society (1999). All Rights Reserved.

目次

      1.  序文.................................................. 2
      2.  回顧.................................................. 2
      3.  最初の小石:RFC文書1の公表............................. 3
      4.  RFCs- 偉大な対話................................. 5
      5.  RFCの30年の回想................................... 9
      6.  愛しのRFCたち -- 最初の30年間........................14
      7.  Security Considerations...............................15
      8.  Acknowledgments.......................................15
      9.  Authors' Addresses.....................................15
      10. APPENDIX - RFC 1......................................17
      11. Full Copyright Statement..............................18
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RFC 2555            30 Years of RFCs           7 April 1999

chap.1.序文- - Robert Braden

いまから30年前。最初のRFC文書 RFC 1が、UCLAで公表されたf(*2)。

現在2500以上にものぼる、コンピュータネットワーク文書シリーズ。28年にわたって Jon Postel によって集められ、収蔵 アーカイヴ され、編集されたシリーズの、最初のものである。Jonは逝ってしまった。RFCシリーズの30周年に捧げられたこの文書は、彼の重厚な貢献に心からの謝意をささげるために編まれた。

現RFC Editorの Joyce K. Reynolds、RFC 1 の著者 Steve Croker、長い視野で私たちを道案内し続ける Vint Cerf、中期RFCシリーズのキーパーソンであった Jake Feinler 。本文書は、かれらの短い追憶からなっている。

chap.2.回顧- Joyce K. Reynolds

わたしがJon Postelとともに、IP番号とプロトコル・パラメタの割り振ることにうつつをぬかしていたのは、もう大昔のことで、ゲートウエイは、まだ「おまぬけ」だったし、EGPは揺籃期にあり、TOPS-20が全盛期の頃だった。ザ・RFC EditorしてのJonがいたので、RFCの文書シリーズの存在は、認識していた。しかし、わたしは、その仕事がもたらすものが奥底でどのような働きをしていたのかは、ほとんどしっていなかった。それはJonがやっていることであり、彼は、ARPANETコミュニティのために、黙々と文書の公開にたずわっていたのだった。


そのころ、Jonとわたしは、彼のオフィスで、その日その日のわたしたちの仕事をこなすために、打ち合わせをしなければならなかった。あるときわたしは、Jonの机のかたわらに置かれてあるフォルダーの山が、増えつづけていることに気づいた。

数週間後、その山は2つになった。わたしは、それがいったい何なのかを尋ねたのであった。そう、もちろん、RFCの公表のための文書が入っていた。Jonは、RFCの

公表を目指してあづけられた提案文書が増えていくのを、なんとか、よい状態のまま保とうとしていた。


ある日、わたしは彼に、仕事をはしょって誰かにそれをあづけることを、少しは学ばないと、と言った。Jonは黙って聞いていたけど、コメントしなかった。そう、そしてそれは、翌日のこと。Jonは、コンピュータスタンドをごろごろ押して、私のオフィスに入ってきた。そこには、RFCの公表のためにかれの机の上におかれていた文書が積まれていたのであった。かれは、でかいチェシャ猫のように、にや、と笑って、「ほい、はしょったぜ」、と宣言して、立ち去ったのであった。


書類の山の一番は、大きな三つの輪でとじられたノートブックだった。中はといえば「NLSテキストブック」となっており、それは、Jonと,Lynne Sime,Linda SatoがISIで、ISIのTENEXとTOPS-20システムで使うために準備していたものだった。それを読みながら、NLSノシステムが、コンピュータで情報を扱う人々を助けるためにデザインされていることを知った。読み書き印刷をするための簡単なコマンドセットから、情報を検索しコミュニケーションに利用するための洗練された手段を提供するにいたる、広範なツールがそこにはあった。


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NSLは、Jonが、RFCを書き、編集し、創造するために使っていたシステムだった。で、そのときから、RFCシリーズの公開のための、教化活動が始まったのだった。

オペレーティングシステムとコンピュータは、時をへて、変わっていった。しかしJonの、RFCのスタイルと文書の質を維持しつづけるための忍耐は、真摯なものでありつづけた。残念なことに、Jonは、かれが注意深く育ててきたRFCシリーズの30周年を、生きて見ることはできなかった。でも、RFCの公刊シリーズの精神は、あたらしい世紀に向かっているわたしたちの中に生きつづけている。Jonがその栄誉を得るべきなのだ。

chap.3.最初の小石:RFC 1の公表 - Steve Crocker

RFC文書番号1「ホストソフトウエア」は、30年前の1969年4月7日に発行された。いくつかの考えと、ほんの最初の実験結果のアウトラインが書かれている。RFCの1番は、つつましやかで、そして忘却の彼方にあってもおかしくないメモだった。しかし、それは現在、意義深いものとなっている。というのも、今日、私たちがいまだにインパクトを受けつづけている広範な活動 initiative の一部をなしたからである。

RFC 1番を書いたころ、ARPANETはまだ、計画段階だった。Bolt,Beranek,Newmanの3名が、現在のルータの先駆といえる「IMPs」の構築と運用についてのすべての重要な契約をかちとっていた。IMPひとつで、冷蔵庫なみの大きさがあり、1969年当時の価値で10万ドルしたものだった。

ネットワークは、ARPAの情報処理技術オフィス(IPTO)によって援助される研究施設の間に施設される予定になっていた。最初の4つのノードは、UCLA,SRI,UCSB,ユタ大学であった。一番最初に、UCLAに置かれ、セットされた。1969年9月1日のことだった。

ネットワークトポロジーについて多くのプランがあり、回線、モデム、IMPが配置されてはいた。しかし、ネットワークの活用についての組織もプランも、最小限のものだった。このことは、研究施設が、その点についてなにも計画をもっていないことを示している。そしてこれは、ARPAのブリリアントな運営決断の結果だったのだ。

     

少し時間を前に戻そう。1968年夏。4つの研究施設から、一握りの大学院生とスタッフが、もうすぐやってくるネットワークについて討議するために、集められていた。本当に基本的なアウトラインしかなかった。BBNは、まだ契約をかちとっていなかったし、そのネットワークの運用にあたってのなんの技術的仕様も存在しなかった。最初のミーテイングのさいに、私たちは他の研究施設それぞれで開催するミーテイングの日程を決めた。そう、今では、年に2、3度ある、あの移動祝祭日をセッテングしたのだった。その後、2年にわたって、グループは実質的に大きくなっていき、「ネットワーキンググループ」に集う私たちの数は、一五名から一〇〇名を越える数になっていった。現在行われている地球規模でのIETFミーテイングは1000名を越える参加者を得ているし、それぞれのエリアに一ダースのワーキンググループを抱えているから、それに比べれば、初期のネットワークワーキンググループは小さくて慎ましやかだった。でも、その時は、このグループは大きく見えたし、運営するので精一杯だった。

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そのころから全然変わっていないように見える伝統がある。ワーキンググループには、誰でも制約なく参加することができる、という精神だ。

私たちの最初のワーキンググループは、1968年の夏、秋、1969年の冬に、少しばかりのミーテイングをした。最初のミーティングは、そのネットワークがどんなもので、どのようにホストの双方向通信をおこなうのかといった既存知識に捕らわれないものであった。今の人たちからみれば、より広く、より大きい課題を考えることを許すものだったし、促すものだった。私たちは、メッセージフォーマットやその他の下位のプロトコルの諸々の詳細に関する処理に着手しなければならないことは、重々わかっていた。

でも、私たちの考えは、そのネットワークがサポートできるかもしれないアプリケーションとはなにかということに集中していた。

ARPANETでは50キロビット/秒の転送回線が使えたが、それでは遅いと思われたし、ネットワークを経由した双方向サービスに高い品質を与えることは難しいだろう、というのが、私たちの悩みだった。

ああ、私たちの考えの方が間違っていればよかったのに! I wish we had not been so accurate!

で、BBNが、ホストのIMP仕様を1969年春に発表した時、そのような広範で巨大な課題の上を冒険する私たちの自由はなくなった。その時までは、私たちは、もっとも一般的なデザイン、もっとも刺激的なアプリケーションを考えようとしていたのだが。

想像力を掻き立てるような考えとしては、通信セッションの開始時に、小さいインタープリタープログラムをダウンロードするというものだった。

そのプログラムが、ユーザのローカルマシンと、やりとりしているバックエンドシステムの間の相互通信をコントロールし、狭い帯域を有効に使うというものだ。

SRIのJeff Rulifsonは、この発想をもつ一等級の実力者でデコード-エンコード言語(DEL)[RFC5]をデザインすることを試みた。Michel Elieは、フランスからUCLAに客員で来ていたが、このアイデアを発展させ、ネットワーク可換言語(NIL)の要求文書{RFC 51]を公刊した。

ここ数年のJava、ActiveXのの登場は、それらの初期のアイデアを果実化したものなのだ。でも、まだそれで終りってわけじゃない。通信とコンピュータを結び付ける発展は、続いていくだろうと、私は思っている。

初期のRFC、相互に連携したネットワークワーキンググループが、IETFの設立の基礎をつくった。このことは、すでに示唆した。現在IETFの標準化過程に参加している人にとってはあたりまえなのかもしれない。でも初期のころの2つの重要な活動局面は、記しておくに足ることなのだ。まず、はじめから私たちが採用したRFCという技術的方向は、重層化したプロトコルを基礎としたオープンアーキテクチャだった。私たちは、永遠にうごきつづける包括的なプロトコルセットを定義できると夢想することは出来ないほど、率直に言えば、おびえた子供だった。私たちは、変化があり、また追加されるものがあり、という継続するプロセスを頭に描いていたし、それは、明らかに、いま私たちの前で起こっていることである。

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RFCは、それ自身、そのような恐れに関するある種の感覚を示していた。ミーティングを何ヶ月か積み重ねた後、私たちは、自分たちの考えを、書き下す必要がある、と感じたのだった。私たちは、自分たちの仕事を分担し、いくつかのメモを書き起こした。その技術的なデッサン作業に加わることに加えて、そのノートに番号を振り、配布するための簡単な手順を準備するという、管理的な役割を受けもった。私たちのグループは、公式のものでなく、幼く、お上からお墨付きをもらっていたわけではなく。だから、私はそれらが、何かをコントロールするための自己主張などではなく、ひとつの対話の始まりなのだ、ということを強調したかった。

最初のRFCから、30年の歳月がながれた。昔、私は、そのような覚書(ノート)たちが一時的なメモにすぎないと思っていた。一年もたったら、それとも、いったんネットワークが動き始めれば、そのシリーズは確実に死に絶えるだろうと思っていたのだが。このネットワークコミュニティのその後の感嘆すべき努力に感謝をささげたい。Jon Postel,Joyce reynolds、そして彼女・彼ら等のチームの忍耐と無償の奉仕に感謝を。それらのおかげで、つつましやかだった「コメントください」RFC シリーズは変化を続け成長していき、このインターネットコミュニティで、皆がお互いに共有する技術デザインの中心となった。そしてまた、他のコミュニティにとっての原型となったのだ。

そう、私たちは、あの「魔術師の弟子」(*3)のように、狂気じみた夢ととんでもない恐れたちを、超えていったのだった。

chap.4.RFCs - 偉大な話し合い - Vint Cerf

昔々。ネットワークがかなたにある、はるかな昔..(*4)。

この大地、地球という惑星が太陽の回りをまわり、太陽が銀河系を回りをまわる。その動きを想う。その最初のネットワークは、相対性理論からいえば、遥か遠くのところに、いま「在る」。

太陽が運行軌道を得るに二億年かかった。30年など、銀河系時間からみて、瞬きだ。でも、わたしたちが過ごしたこの30年が、なんと不思議な時間だったことか!。

RFCは、ARPANETの、のちにはインターネットとなったものの、放浪の記録である。コンピューターネットワークのデザインと概念と応用から生じた諸々の疑問に対する、その創造者と市民の冒険と発見と建設と再建と議論と解決の、叙事詩 オデッセイ なのだ。

おずおずとした対話からはじまった創成期から、構成的な対話となった現在にいたるRFCの変容を眺めてきたこと。それはとても魅惑的なことだった。email、掲示板、wwwといったアプリケーションの成長は、その変化に十分に応じてきた。しかしその成長自身、私たちの社会経済構造に対する、インターネットの規模拡張とそのインパクトを示すものである。

インターネットの経済的な重要性が増すにつれ、RFCという形で文書化された「標準」の重要性は増してきた。その公式文書的な性格も、増した。対話 dialogue が、テクノロジーの変化につれて、他の場所でもなされるようになり、そのような仕事のスタイルが採用されるようになってきた。

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RFCの歴史の中に隠されているもの。それは、協同的達成をめざした人々の慣習 institution の歴史である。そして、知られていない幾人かのヒーローの歴史である。

この30年の記念にあたり、私は、彼らのうちの数人をここに知らしめる機会を得たことに感謝を表明する。多くはRFCの著者たちである人々の名前を列挙するだけで、一冊の本になるだろう。しかし、ここでは、短かくのべることを余儀なくされている。以下では、次の人々について記したい。

Steve Crocker, Jon Postel, Joyce K. Reynolds and Bob Braden.

Steve Crocker は、穏やかな男だ。

RFC 1は、ほとんど忘れ去られているかもしれないけれど、RFC 1は、彼の勇気の賜物である。

未知の旅路に人々を誘う透徹した視野をもったリーダシップの賜物であった。でも、そのようなことを感じさせないほど、静やかな男なのだ。

あのころ、私たちには、なんの旅行案内もなかった。

コンピュータネットワークは新奇で、その先を示す歴史的道標はほとんど用意されていなかった。Steveは、違った見方を出会わせて一つのものにまとめあげる能力をもっている。トムソーヤのように、横たわる難問を解くために自らの時間を捧げようと、人々に思わせる、能力をもっている。それはSteveが、初期のRFCと彼が推進したNWGミーティングの中に見いだすことができる。

のちに私は、インターネットの仕事の中で、Steveが発明した枠組みを倣うことにベストを尽くした。

国際ネットワークワーキンググループ(INWG)とその文書ノート、インターネットワーキンググループとインターネット試験ノート(IENs)。それらは、Steveの組織的視野とスタイルの鉄面皮な模倣であった。

Jonahan Postelの、RFCにたいする初期からの献身がないとしたら、はたして今日あるような質を持つRFCがあったかどうか疑わしい。

どうやらジョンは、30年も前からしっていたのだ。なされたもの what を文書化することが重要であるだろうこと。また、未来のネットワーカーが私たちのが行った結論の幾つか( そしてそれは彼らの頭を揺さぶるようなものだろうが) に行き着く道筋に関して、戸惑うこととなるだろうから、彼らのために討論を有無を言わずに捕捉しておこうとすること。つまり、なぜ why 、を文書化することが重要なのだということを。

Jonは、ネットワークの Boswell(*5)(*6)だった。しかし(*7)TCP/IPの標準になったと考えられる記念碑的RFCの中に充満しているのは、質というものに対する彼の献身であり、技術能力と編集技能を兼ね備えた彼の秀でた能力であった。劣悪なデザインをもった私たちの多くの判断は、彼によって、やり直しとなった。

それはJonの頑固な決定、つまり私たちは皆んな、「それを正しくする」べきという決定によるものだった。編集者としてかれは、シンプルに、個人的な資質のフィルターに合致しないものを通しはしなかった。私たちは、時には呻き声と非難とわめき声と長弁舌をなしたが、でも結局ほとんどの場合Jonが正しかった。そのことを、私たちは知っていた。

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Joyce K. Reynoldsは、JonがRFC編集者だった時に、Jonのそばに長い間いた。既に上のJoyceの文章を読まれたかとおもうが、この二人は同音ユニゾンであって、超伝導というか、ツーカーのエレクトロン superconducting electrons のペアのようなもので、RFCシリーズの「超指揮者」 superconductors だった。すべては実践的な目的のためになされた仕事だったから、二人のうちどちらが、どのRFCを編集したのか、述べることは不可能である。Joyceの質に対する情熱はJonのそれとマッチしていたし、それは現在まで続いている。また、JonがRFCの世話人としている最中に思わぬ時に見せる微妙でおもしろがりのユーモアセンスも同じく彼女はもっている。

個人的に私を引き付ける一例は、私がJonを追悼したRFCの2468という番号を Joyceが割り振ったことである。そのことは、私の頭にはなかったのだが、実に巧妙なものだったのだ。それは、ある人が、これはなにか符合なのではないか、というemailを送ってくるまで、私はそれに気づかなかいほどのものだった。古典的なミステリーをならって(*8)、この編集者はそのようなことをしたのだった。

RFCの神話サーガのもう一人の無名のヒーロは、Bob Bradenである。そのつつましやかなたたずまいゆえに、長きにわたる、記念碑的とも言えるバランスのとれた貢献をした人物だと、思わせない。

RFCの質の高さの多くは、Jon,JoyceとBobを含んだUSC/ISIチームの中での相互相談に因るものであろう、と私はにらんでいる。

もちろん RFC 1122と1123は、インターネット標準の明晰さのためになされた2つの巨大な貢献である。その仕事だけで、Bobは、大いなる評価をたもっている。しかし、彼は、長きに渡って終端間プロトコル調査グループ( End-to-End Research Group )をリードし、そこから得られたRFCは、RFCの中でももっとも重要ないくつかのものとなっている。それは、特にTCPに関するプロトコルの最適な実装を理解を洗練させたものである。

RFCが最初に産み出された時、それはほとんど19世紀的な性格をもっていた。さまざまなプロトコルのデザインの長所を討議するARPANETの公共の場では、手紙がやりとりされていた。emailと掲示板がネットワークの豊穣な場所から現われた時、その裾野のひろがった場所からやってきた人々が、この歴史的な対話に参加した。彼らは討議のために、オンラインメディアの利用を増やし、RFCの中に討議を明文化する必要を減じさせ、そして、いくつかの点において、歴史家たちをして、その過程の何か痩せ細ってきていると感じさせはじめたのであった。RFCは、緩やかに、討議というより結論、となってきたのだった。

Jonは、このシリーズの中に、純粋に技術的な文書以外のものの公刊を許可した。そこには、詩があり、ユーモア(特に4月1日のRFCがあり、それは公刊当時よりもさらに現在読むと、ヘンなものだ)、価値ある文献リストのリプリントであり、それらは、ネットワークワーキンググループにより準備された文書の中に、混ぜられたのだ。

1970年代はじめ、ARPAは、同時にいくつかの研究プログラムをパケット交換技術のほうに向けていた。それはARPANETのアイデアが見事に成功したあとのことだ。それらの中には、Packet Radio Network, Atlantic Packet Satellite Network、そして the Internet といった計画があった。それらは、似通っているのに平行して、RFC,PRNETノート、ARPA Satellite システムノート(それは、明らかな不幸な略称をもっていた(*9) )、Internet Experiment ノート (IENs)、その他。

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the Internetプロトコルは、APANETと他のDARPAがスポンサーとなっていたネットワークで1983年1月に使われることが命じられていた。(SATNETはその前に既に変更済だった)。Internetに関するノートは、RFCシリーズに統合された。the Internetプロジェクトが果実を見いだすことが確実になっても、少しの間、IENは、RFCと平行して出版された。何人かの意見、特にDanny Cohen(彼はそのときUCS/ISIでJon Postelと一緒だった)が、シリーズの分離は、間違いであること。単一シリーズで維持し、検索するのは、非常に容易なことを示唆した。後知恵的にいえば、Dannyの正しさは立証されたといえるし、RFCシリーズは、その献身的な編集者たちを得て、短命な他の文書群にくらべて、遥かによりよくその試練の時に耐えたといえる。

インターネットに結び付いた諸組織が変化を遂げ続けていたから、RFCもその変化する環境に適用していったように見える。

多分その最大の影響は、IETFの変化に見て取れるだろう。IETFは、いくつかのタスクフォースの一つに過ぎず、それらのタスクフォースの議長たちがI(Activities)B を形成していたが、それが今やもっとも影響のもつ、世界的なインターネット標準化を押し進める組織となった。それはIESGによって運営されており、ISOCの庇護のもとで活動している。

「標準化軌道」RFCを産み出す過程は、現在、かつてのものよりも、遥かに厳密なものとなっている。またそれは、成長著しい産業に与える影響も遥かに強くなっており、IETFワーキンググループの活動文書セットであり、それとは違って非公式で短命な「インターネットドラフト」シリーズをも激増させてきた。

初期のRFCをかつて性格づけた対話は、年3回のIETFのミーティングと膨大なemailにその道を譲った。同時に、チャットルームを通じてのグループ内のインタラクティブな活動の増大、画像操作もできる双方向ボード (shared white boards) そしてより複雑なマルチキャスト通信による会議といったものに(*10)道を譲った。インターネットの変化をとりまいて進行する、そのような儚い対話の平行性と増加は、技術史家の仕事をとても困難にしてきた。WWWによって集められる情報の現象的な蓄積が、その一つのカウンターバランスになっていると感じるかもしれないが。たとえ能天気な調査が、なんらかの驚きと、時には謎をもたらす旧いメモを、しばしば発見するとしても、その多くは、かつて紙であったもので、しかし、だれか活動的なボランティアによって、ビットに変換されたものなのだ。

RFCは、そのようにして、30年前に、おそるおそるはじまり、Jon Postelと、USC/ISIの彼の同僚コレーギュによって編集され、維持されつづけた。

そして、インターネットが真の意味で皆のものになるまで眠ることはない増加を続けるインターネット宇宙飛行士たち。RFCは、かれらの冒険と達成と献身の並外れた物語を語るのだ。

そのRFCの精神において、この回想も語られた。とくに、私たちが心底愛した同士 コレーギュの記憶において。Jon Postel、彼のこの文書群 アーカイヴに対する関与がなければ、物語は多分、大きく違ったものとなっていたし目を見張るべきものとはなっていなかっただろう。

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chap.5.RFC30年の回想-Jake Feinler

わたしたちは現在、最初のRFCがSteve Crockerによって1969年4月7日に公刊されたことを、知っている。それは、「ホストソフトウエア」と題されたものだ。

2つめのRFCは、4月9日、SRI International(その当時、スタンフォード調査研究所あるいはSRIと呼ばれていた)のBill Duvallによって公刊され、同じく「ホストソフトウエア」と題されている。RFC 2は、RFC 1に書かれている示唆的記述に対する応答であって、かくして、対話は始まった。

RFC1で、Steveは、二つの実験を要請している。

1) SRIは現在、オンラインの検索システムの改良をしているところだ。そのシステムは、ネットワーク文書センター[あるいは、SRI NICとして、近々知られることになる]の主要なソフトウエアー構成である。それは、モデル35テレタイプによって、変更が加えられうるのだ。テレタイプへのコントロールは、DEL[デコード・エンコード言語]で書かれるだろう。すべてのサイトは、DELコンパイラで記述し、DELプログラムを通じて、NLS[SRI Doug Engelbartオンラインシステム]を用いることになる。

2)SRIは、NLSをつかうために、DELのフロントエンドを記述するだろう。そこには、グラフィック機能も含まれる。UCLAとユタ大学は、NLSをグラフィック付きで使うことになろう。

2日後に発行されたRFC 2は、ネットワーク経由で、NLS文書システムに接続するための詳細な手続きのしかたを要求している。Steveは、RFC 1を「まったく忘却のかなたとなる」文書だったと、考えているかもしれない。しかし、情報通としての私は、彼と違った考えをもっている。

この最初の対話で示されたコンセプトは、驚異的なものだった。私たちが皆な現在webで用いているネットワークを用いた情報交流というものにわれわれを導くものであった(幸いなことに、われわれはすでに、DELとモデル35テレタイプを卒業しているのだけど!)

私はそう信じているのだが、RFC 1は、紙で書かれた文書だった。RFC 2は、SRI NLSシステムを経由して、オンラインで書かれた。そして、オンライン版SRI NLSジャーナルに掲載された。しかし、それは多分、NICのsnailメールを通じて、それぞれの受信者にemail を通じて送信されたもので、FTPはまだ、発明されていなかった。

RFC 3 は、ふたたびSteve Crokerによって書かれており、「文書化のための約束事」と題されたものだった。すでに、いくつかの基本的なルールがそこに現れつつあることを見ることが出来る。いままで以上の革新的なコンセプトが、そのRFCの中に導入されているのだ。そのRFCは次のように述べる。

ネットワークワーキンググループ(NWG) は、そのホストソフトウエア、ネットワーク利用の戦略、そして、ネットワークの初期実験にかかわる。NWGがおこなった試み努力の文書化は、本文書のようなノートを通じて行われる。ノートは、誰かの手によって、どこかのサイトで作られ、このシリーズに含まれうる。

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さらに同文書は続ける。

NWGのノートの内容は、なにかの考え、示唆、その他であるかもしれない。それは、ホストソフトウエアあるいは、ネットワークのほかの側面に関するものである。ノートは、丁寧で慇懃無礼にというよりは、タイムリーであることが望まれる。例示やその他具体的指示のない哲学的な立場であれ、序文あるいは背景説明のない具体的指示あるいは実装であれ、解答の試みがない率直な疑問表明であれすべて、受け入れられうるものなのだ。NWGノートの最小限の長さは、一センテンスである。

上の記述方法が標準的なものなのは(あるいは、それが欠けていようが)、次の2つの理由によっている。第一に、書かれたものを、権威的なものが限りなく少ない、もろものアイデアの討論だと見る傾向がある。第二に、丁寧さにかけるものを公表出版するには、どうしてもとまどいがあるので、そのような抑制を解き放ちたいと望んでいるのだ。

Steveは、このRFCを、次の配布リストにおくることを、要請していた。

Bob Kahn, BBN

Larry Roberts, ARPA

Steve Carr, UCLA

Jeff Rulifson, UTAH

Ron Stoughton, UCSB

Steve Crocker, UCLA

かくして、この第三番目のRFCが公表されるまでに、現在の新しいネットワーク環境のなかで、どのように仕事をすすめるのか、というコンセプトの多くの部分が確立されていた。あることを、実際に討議し試みる実装者たちのワーキンググループ(NWG)が必要なのだ。アイデアは、自由に流通されるべきだった。コミュニケーションは、普段着のもの informal でなくてはいけない。文書は、(可能ならオンラインで)NICに保存されるべきで、ワーキンググループのメンバーに自由に配布されなければならない。なにか寄与したい人はだれでも、その集団に参加できる。この一文書によって、数マイルにおよぶ赤テープと訳知り顔のプロセスを、即刻突き破ったのだった。その時代と時代背景を考えれば、なんとラディカルだったことか!。RFCはまだ3つしか出ていないのに!

多くのRFCがその後続き、SRI NLSジャーナルは、ARPANETの文献検索サービスとなっていった。それは、当時のほかの検索サービスとは、次の重要な点において、異なっていた。

もし、ジャーナルをオンラインで検索して「ヒット」したら、著者とタイトルを教えてくれるだけではなくて、「リンク」と呼ばれたテキストの一部分の文字も得ることができたのだ。「リンクに飛ぶ」をコマンドすると、やったぜ! voila!。そのフルテキストを得ることが出来た。当時のほかの検索サービスの慣行であったように、ライブラリーに行くことなく、ドキュメントのコピーを得るための代理機関に注文をする必要がなかった。文書全体を、その場ですぐに得られたのだ。

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また、ジャーナルにあずけられた文書は、変更されなかった。新しい版をあづけることができた。そして旧版にとってかわるのだが、新版もまた、変更されえなかった。それぞれの文書は、追跡が容易なようにユニックな識別番号が振られた。急激に変化する環境の中では、そのようなやり方は、便利だった。文書は、しばしば、RFCあるいは他の公的文書として最終的に発行されるまえに、いくつかの草案化を経たものであった。そしてまたそのバージョンを追跡できるということも、とても便利なことだった。

SRI NLSジャーナルは、当時の革命だった。しかし、それにオンラインでアクセスするには、いくつかの操作に関して問題があった。ホストコンピュータは、小さく、込んでいた。ネットワークは、飛躍的に成長していた。接続は時間切れにならざるえず、アクセス機会を皆に与えることはとどおった。さらに、外の世界は依然、紙の世界であった(スキャナーもレーザープリンターもなかったのだよ、ご同胞!)。NICは、依然として、紙の文書を、要望者に送付するという、消耗な仕事をしていた。

1972年、私がNIC計画の主任調査員になった年だが、その頃までには、ARPANETは急激な成長をとげつつあり、日に日に多くのホストがARPANETに接続され続けていた。それぞれのホストには、技術的提携者として知られていた技術的な接触者が必要とされていた。多くの提携者もまた、NWGのメンバーだった。それぞれの提携者には、NICから「機能文書」と呼ばれていた文書一式が送付された。どのドキュメントには、プロトコルハンドブックが含まれていた(最初BNNによって、後にNICによって発行されたものだった)。

ハンドブックの内容は、キーになるRFCと「BBN1822」と呼ばれていた一文書からなっていた。後者は、HOST-to-Impプロトコル仕様を定めたものだった。

NWGは、NICに、ハンドブックに含まれるべき文書を知らせた。そしてNICはそれをまとめて、出版し、本として配布した。BBNのAlex Mckenzieは、ハンドブックの最初の版の時に、NICを援助した。しかし、すぐに大学院を出たばかりの若き学士が登場した。名前はJon Postelといい、彼は、NWGに加わり、NICの接触者となり、プロトコルハンドブックがいかなる形で発行されるべきかについてのARPAの報道官となったのだった。

RFCに親しんでいる人はだれでも、Jonathan Postel博士のことを考えずにRFCを考えることはできない。彼はわたしたちの多くにとっては、「ミスターRFC」である。Jonは1970年代、SRIで仕事をしており、私の隣のオフィスにいた。我々はDoug Engelbart's Augmentation Research Centerのメンバーだった。Jonは、ブリリアントな計算機科学者であっただけでなく、情報を正しく広めることと、ひとつのネットワーク環境において機能する方法学の確立することに、深く気遣いしていた。われわれは、それを「正しく」行う方法について、朝な夕なに会話を交わした。ネットワークは、RFCの維持のためにおこなわれたJonの献身に、恩義があるのだ。

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彼の仕事は、スタッフ、NWG,IETF、様々なNIC、CNRIとともに、文書群を、年月を越えて生き残りうるものにしようとしたものである。それは、昔も、そして現在に至る、愛の仕事 a labor of love である。

Jonは、1976年にSRIを離れ、USC-ISIに加わり、この世を去るまで、そこにいた。RFCs、NWG、連携者、そしてNICは、ネットワークを用いて、その仕事をうまく行うための重要な部分であった。しかし、SRI NLSジャーナルのシステムは、そのホストコンピュータにとっては、大きすぎるものとなり、そのシステムにアクセスしようとするユーザの数を、うまくハンドリングすることはできなくなった。EmailとFTPが、そろそろ実装されるようになっていたので、(SRIの)NICは、ネットワークで、情報配布サーバを経由して、ユーザに情報を配送する方法を開発した。自分のホストコンピュータから、emailによって、RFCの配送リクエストを行うことができるようになり、自分のメールボックスに自動配信されたものを、得ることができるようになった。ユーザたちは、ネットワークアクセスができないなら、RFCの定期講読ハードコピーとプロトコルハンドブックのコピーを購入することもできた。

(SRIの)NICは、Jon,ARPA,DCA,NSF,他の機関のNIC、それから他の代理機関とともに、世界の実装者たちが、容易にアクセスできるRFCの二次的文献 secondary reference をつくるために、仕事した。RFCは、公的な標準化団体、生産者、ベンダー、他のワーキンググループ、大学に、自由に共用されるものであった。閲覧制限あるいは機密扱いされるようなRFCは一つもなかった。RFCが、冷戦の高まりの中で、国防総省 DoDが資金援助していたという点を考えたときに、それは、結構な偉業というものであったのだ。

RFCを、the Internetの発展のための、技術的ノートの公的文書群として確立するために、私たちの多くは、その初期の時代、ハードに働いた。簡単な仕事 jobじゃなかった。そこには、多くの平行的に行われている努力と、バラバラに動いているグループへの、サジェッションがあった。またRFC否定派もいた。その否定の理由は、行われている方法が新奇な方法であり、ARPANETは、「枠線の外側で色を塗っている」、というものであった。Jon、編集者チーフとしての彼は、批判された。RFCが、「公的」標準団体によって発行されていない、という理由によるものだった。(SRI)NICも批判された。NICが「公的」文書発行機関ではなかったからだ。私たちは、古くさいやり方と新しいやり方を、結婚させようと勤めた。幸運なことに、我々は普段に、政府スポンサーによってサポートされていた。スポンサー自身も、新しい地平に足を踏み込もうとしていた。


多くのRFCは、数ヶ月にわたる熱っぽい議論と実装の結果物であった。RFCの一つを書くことは、臆病者にはできないことであった。「正しい」方向に行かせようとして、感情が、しばしば高ぶった。その後には、激昂した議論が待っていた。普通は、それは中身に関するものであったが、時には個人に関わるものとなった。Jonは、しばしば、そこに踏み込み、仲裁した。ついには、NWGあるいは、政府スポンサーは次のように言う必要があった。「はい、お疲れさん。できあがったRFCを出せ」。RFCの編集者チーフとしての Jon は、議論と実装を続けたいと考えている人々、あるいは、自分の案を文書裁断室に送られた人々から、しばしば、容赦ない非難をあびた。なんとしたものか、彼は、常に、そのスタイルと物腰で、論争を切り抜け、話題を変えたのである。私たちは、Jon、それから、NWGあるいはRFCを支えた人々の貢献と献身に計り知れない恩義を負っている。

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DoDが、TCP/IPを、通信ネットワークの公的なホスト間プロトコルとして採用した時ほど、論争が悪化したことはなかった。

1982年3月、ある軍事的指示が、出された。それは、国防次官 Under Secretary of Defense のRichard DeLauerによるものだった。その指示は簡単なものだった。TCPとIPの使用は、DoDの通信ネットワークにとって、至上命令である、と宣言していた。

軍事的指示というものが、、議論するものでないことを心に留めておこう。あるものが発表されたときには、議論するタイミングは、ずっと前に終っているものだ。ARPANETとその後継者、国防データネットワークは、軍事ネットワークであった。

試合は開始された。そのレースでは、その新しいテクノロジーが、現実のネットワークを稼働させうるものなのかどうかを証明しなければならなかった。以後、たった2ページの指示文書が、ネットワークに引き起こした混沌と論争がどのようなものかについて、想像できないことだろう。(しかし、それの物語は、別の機会に譲ろう)。しかしながら、RFC 791と793(IPとTCP)に基づいたその指示は、RFCは、技術的文書の一グループとしての位置付けと認知を、世界中にあたえた。

(そしてもちろん、TCP/IPは、その仕事を、旨くやったのだ!)


Jonと私は、政府の請け負いだった。であるから、もちろん、我々の契約している高官の指示にしたがった。Jonは、主として、ARPAとの請け負い契約のもとにあったし、SRIのNICは、主として、DCAの契約下にあった。BNNは、もう一つの鍵になる請け負い業者であった。多くの部分で、私たちは全員で、チームとして、仕事をしていた。しかし、ARPANET、DDN両者と軍事的な人事契約を結んでいる人員には、しばしば入れ替えがあった。そして、私たちは全員、新しい参加者がネットワークに加わったとき、参加者にとってなにを得ることができるのかについて、情報を与えようといして共同しあった。私たちはまた、ある努力仕事がが妥当なものであった時、その努力を重複させるよりは、努力を協同化するように育てよう、と試みた。NWG(あるいは、現在知られているものとしてのIETF)、およびRFCは、DoDのプロトコルが、他の政府、学術、商業ネットワークで用いられるための、協調的協同活動のための主たる媒介物となっていった。


私は、1989年にSRIとNICプロジェクトから離れた。その時期、the Internetとして知られるようになっていたネットワークには、約3万のホストがあった。そして、丁度1000を越えるRFCが発行されていた。現在、the Internetには、数百万のホストがある。RFCは、優に3000を越えた。一つの技術革命として行われた一部分となったことは大きな喜びであった。RFCが、いまなお、IETFによって発行されてきたこと、そしてそれらが、いまだに、議論されと実装された諸々のアイデアに大きく基礎づけられたものであること。オンラインで結ばれたワーキンググループと、それを配信する情報サーバの考えが、一つの生き方になっていること。小さな「リンクたち」(公的にはハイパーテキスト、として知られているものだ)が、文書配信に革命を起してきたこと。政府、アカデミー、実業が、現在、おもしろさと利益のための同じゲームに参加していること。これらのことを見ることは、私の心をなごやかにしてくれる。

は、心暖まることだ。

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(もちろん。テキストと画像の統合化、というSteveのアイデアが、最終的に、実を結んだ、ということを見ることは、ハッピーだ。二日よりは、ちょっと時間はかかったけどね。)

chap.6.わたしの好きなRFC--最初の30年間 Celeste Anderson

五年前。Jon Postelと私は、RFC25周年記念書籍を公刊したいとおもっていたが、他のプロジェクトに忙殺され、果たせなかった。そのとき、RFC30年の中で、表明されたオリジナルなアイデアをベースにして、13人の「RFC編集者が選ぶ」RFCを集めて0周年記念本を出さなければ、と決めた。

1998年10月にJonが永遠の眠りにつき、わたしたちは、その目的を果たせなかった。しかし、RFCの1を含んだ初期のRFCのいくつかをオンラインに載せ始めたのだった。わたしたちは、出来るだけタイプライターで書かれたオリジナルに近いように見えるようにしようか、それとも、最近のRFCスタイルにあわせて若干の調整と形式を整えようかどちらがいいんのかは、確信がもてなかった。あなたが、RFC1のコピーをまだ持っているなら、NROFFでオンラインバージョンになおすために、譲渡して欲しい。また、初期のRFCの手書きのダイアグラムをASCIIフォーマットに変換するのは、興味深いチャレンジなのだ。

初期RFCオンラインに多くを送付してもらうことでRFCエディターを助けるためには、次のURLをチェックしてほしい。

http://www.rfc-editor.org/rfc-online.html に、このプロジェクトに関する追加情報が掲載されている。

Jonへの追悼として、私たちは来年、「愛しのRFCs--最初の30年」本を編んでいる最中だ。

次のwebサイトを準備している。

http://www.rfc-editor.org/voterfc.html

投票および反応を記録するサイトだ。わたしたちは、emailも受け付ける予定だ。votefr@isi.eduに、送付してほしい。その投票理由もいっしょに送ってくれるとうれしい。

Jon Postelが、すでにそのコレクションのために選定していたいくつかのRFCを、そのリストに加える権利を留保している。投票は、1999年1月31日に閉じられる。

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7. Security Considerations

Security issues are not discussed in this commemorative RFC.

8. Acknowledgments

Thank you to all the authors who contributed to this RFC on shortnotice. Thanks also to Fred Baker and Eve Schooler who goaded us into action. A special acknowledgment to Eitetsu Baumgardner, a student at USC, who NROFFed this document and who assisted in the formatting of RFCs 1, 54, and 62, converting hand-drawn diagrams into ASCII format.

9. Authors' Addresses

    Robert Braden
    USC/Information Sciences Institute
    4676 Admiralty Way #1001
    Marina del Rey, CA 90292
    Phone:  +1 310-822-1511
    Fax:    +1 310 823 6714
    EMail:  braden@isi.edu
    Joyce K. Reynolds
    USC/Information Sciences Institute
    4676 Admiralty Way #1001
    Marina del Rey, CA 90292
    Phone:  +1 310-822-1511
    Fax:    +1 310-823-6714
    EMail:  jkrey@isi.edu
    Steve Crocker
    Steve Crocker Associates, LLC
    5110 Edgemoor Lane
    Bethesda, MD 20814
    Phone:   +1 301-654-4569
    Fax:     +1 202-478-0458
    EMail:   crocker@mbl.edu
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Vint Cerf
MCI
EMail: vcerf@mci.net
Jake Feinler
SRI Network Information Center
1972-1989
EMail: feinler@juno.com
Celeste Anderson
USC/Information Sciences Institute
4676 Admiralty Way #1001
Marina del Rey, CA 90292
Phone:  +1 310-822-1511
Fax:    +1 310-823-6714
EMail:  celeste@isi.edu

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10. APPENDIX - RFC 1

The cover page said at the top:

"Network Working Group Request for Comments" and then came an internal UCLA distribution list:

V. Cerf, S. Crocker, M. Elie, G. Estrin, G. Fultz, A. Gomez,D. Karas, L. Kleinrock, J. Postel, M. Wingfield, R. Braden,and W. Kehl.

followed by an "Off Campus" distribution list:A. Bhushan (MIT), S. Carr (Utah), G. Cole (SDC), W. English (SRI),K. Fry (Mitre), J. Heafner (Rand), R. Kahn (BBN), L. Roberts (ARPA),P. Rovner (MIT), and R. Stoughton (UCSB).The following title page had "Network Working Group Request for Comments: 1"at the top, and then:HOST SOFTWARE STEVE CROCKER 7 APRIL 1969

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11. Full Copyright Statement

Copyright (C) The Internet Society (1999). All Rights Reserved.

This document and translations of it may be copied and furnished to others, and derivative works that comment on or otherwise explain it or assist in its implementation may be prepared, copied,published and distributed, in whole or in part, without restriction of any kind, provided that the above copyright notice and this paragraph are included on all such copies and derivative works. However, this document itself may not be modified in any way, such as by removing the copyright notice or references to the Internet Society or other Internet organizations, except as needed for the purpose of developing Internet standards in which case the procedures for copyrights defined in the Internet Standards process must be followed, or as required to translate it into languages other than English.

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*1: translator akira yoshii,,初出20040313

*2: ftp://ftp.isi.edu/in-notes/rfc1.txt

*3: 訳者注:魔術師の弟子:見習い魔術師:Sorcerer's Apprentice:インターネット裏用語として有名。見習い魔術師が楽しようとして、ほうきとバケツに魔法をかけるのだけど、止め方を知らないものだから、パニックになって大騒ぎ、というお話。RFC1123(Requirements for Internet Hosts -- Application and Support ftp://ftp.isi.edu/in-notes/rfc1123.txtの第4章TFTPの解説の箇所では、「魔術師の弟子症候群」シンドロームとして登場している。パケット通信とバケツリレーの類比はしばしばTCP/IPの解説でも出てくるが、止め方を知らないで、どんどんパケットを流してしまうという、停止なしの状態を面白がって?示すときに使われる用語なのである。

*4: A long time ago, in a network far, far away...:Vint Cerfによる、ジョナサン・ポステルへの追悼文 RFC2468 も、この類似の言葉とともにはじまっている。なおRFC2468は、山根信二氏による感動的な邦訳がある

*5: 『サミュエル・ジョンソン伝』(みすず書房で翻訳あり)のJames Boswell のことだろう。18世紀のスコットランド社会が生んだ偉人の一人。ルソーやヴォルテールの同時代人で、ルソーなどは、彼のコルシカ旅行記にかなり影響をうけている。で、ヒュームは、彼をちょっと「狂ってる」といってたらしいが、それもそのはず、ロンドンで辞書作りに人生をかけているサミュエル・ジョンソン博士の行状と言葉を、延々延々延々延々と克明に記録し出版した、希代の「ちょっと狂った」 notetaker であった。

*6: 16世紀の有名な紋章学者の John Boswellっていうのも語呂はいいけどね。

*7: なぜここで、「しかし」、かというと、ジョンソン博士の弟子のボズエルはジョンソンの辞典作成自身に影響をおよぼしたというわけではなく、ジョンソン伝の記述者だったけれど、Postelは、ジョンソンの辞典にあたるRFC自体に影響をおよぼした、というところが、違うのだ、というニュアンスだろう

*8: 2468が2ずつずれている、という以外、訳者には意味がわかりませぬ。どなたかお教えくださいませ

*9: この記述は、訳者不明。Satellite System Note を略せば SSN。これは太陽黒点の平均数をなのだが、、、それとも、ASS note==お間抜けノート、という意味なのか...

*10: このRFC発刊当時であるから「MBONE」のことを具体的に指しているものと思われる。でも訳者は使ったことがなく想像がつかないので、http://www.oia.u-ryukyu.ac.jp/data/1997/19970628-1/~asuma/repo.html で雰囲気でも。

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